
天保通宝 — 財政危機が生んだ「当百銭」の野望と贋造の嵐
江戸後期の飢饉と幕府財政難が産んだ異形の楕円銭、40年の波乱と終焉
対象貨幣: 天保通宝
概要
天保通宝は天保6年(1835年)に鋳造が始まった楕円形の銅銭で、額面は当百文——寛永通宝1枚の100倍に相当するとされた。しかし実際の銅含有量は寛永通宝100枚分には遠く及ばず、幕府が財政難の打開策として生み出した「信用の水増し」であった。
鋳造背景にある天保の飢饉(天保4〜10年=1833〜1839)は、東北・関東を中心に甚大な被害をもたらし、幕府の救済財源は枯渇しつつあった。当百文という破格の額面は、少量の銅で多くの価値を生み出す発想の産物だったが、その歪みはすぐに表面化した。
水戸藩主・徳川斉昭が諸藩への先例を開いたことで、天保通宝の鋳造許可は各地の藩に波及した。藩鋳品の品質格差と全国的な贋造の蔓延が加わり、江戸後期の庶民経済は混乱した。明治9年(1876年)の通用禁止まで実に40年以上にわたって流通し続けた天保通宝は、幕末から明治への経済移行期を生き延びた「最後の江戸銭」のひとつである。



